古典派時代の演奏会におけるプログラムは、まさにその時代の「現代音楽」で、シンフォニーの切り貼りのようなプログラムも多かったそうです。入場料は1グルデン(現代円で5,000~10,000円)。交響曲38番の大成功に気を良くしたモーツァルトが、「フィガロの結婚」の変奏曲を即興演奏してくれたこともあったそうです。
ヒュッファーという人物は、仕事仲間に連れられモーツァルト未亡人コンスタンツェと一夕を共にした際のことを次のように回想をしています。
彼女は亡き夫モーツァルトについて、大変面白い話をしてくれた。たとえば、モーツァルトは全く明りを取り払った部屋で眠り、正午までは起きてこない。昼食が済むと仕事を始めるのだが、彼女(未亡人コンスタンツェ)にいわせると、その時はただ(楽譜の)コピーを取っているだけで、作曲はすでに午前中に行われているということである。
交響曲39番から41番までをわずか2か月前後で作曲したという超人的な能力のある彼ですが、晩年の(仕事人としての)活動時間帯は主に午前中だったようです。たしかに、仕事が逼迫すればするほど、寝起き数時間(2,3時間)というのは、余計な思考が働かずに集中力が持続する時間帯のような気もします。あるいは暗いベッドの中で何らかのインスピレーションを得ていたのかもしれません。彼にとって、午後という時間帯は単なる充電の時間だったのかもしれませんが、天才が努力を重ねった結果、手にしたルーティンと言えるのでしょうか。
吉田秀和さんという音楽評論家をご存知でしょうか。吉田さんの名前は演奏家の友達に教えてもらったのですが、主著の一つである「主題と変奏」を読んだのは吉田さんが亡くなられた後のことでした。まっすぐで、しっかりとした理解に支えれた文章には感銘を覚えましたが、百歳にもあと少しというご長寿であられた先生を、ほんの数秒たりともリアルタイムで追えなかったことは残念です。
「主題と変奏」において吉田さんは、私たちのこころを掴みどころのない、定まらないものだと、ポエティックに語りかけます。しかし目の前で演奏されるバッハとシューマンの音楽は、さだまらない精神的存在である我われを、掴んでいると。これが「物」であると。ある種、東洋哲学のようでありますが、古典派の和音構成、カデンツの中にしっかりとした「実存」を見出していることが、吉田さんに共感を覚える部分なのです。評論家の力量を判断するには、構成に対する理解があるか、ないか、その部分だけに注目してみればよいのですが、世の中の評価は一向に定まらず、どこの世界にも「真実(簡単にいえば、当たり前のもの)」を迷いの目で捉える方が多いのが現状です。空虚なものって嫌でしょう。面倒くさいもの、真実でないもの、疲れるでしょう。よき評価者にはしっかりとした理解(具体性)があります。
私たちは音楽を理解し、古典派の本質に迫り、優れた書物や名曲に込められた、学術・芸術のエッセンスを吸収していかなくてはなりません。ここでは、吉田さんの「主題と変奏」で紹介されているベートーベンの音楽哲学を紹介してみましょう。ベートーベンがドイツの女流作家ベッティーナ・フォン・アルニムに語ったものです。
音楽は精神生活を感覚的に表現するのによい方法である。旋律はポエジーの感覚的な生命であって、旋律につつまれた精神は、無碍の普遍性をもって拡がり、単純な音楽的思想から生まれてそれがなくては消えてしまうような感情の温床を万人の中につくりだす。この温床が和音であって、自分のシンフォニーはこれを表現し、その中では様々な形式を融合したものが、母床から先端に至るまで波動している。人はそこに永遠にして無限なる、決してことごとくは抱括し得ぬものを感じるだろう。
私のシンフォニーをきけば、ゲーテは音楽が高い叡智の世界への唯一つの非肉体的な入口であり、人間はそれに包まれているのだが、自分ではそのことを知らずにいるという、私の言葉の正しいことを認めるだろう。精神が、感性的に音楽から感じるものは、知識の形象化されたものである。音楽の究めつくせない法則に服従すれば、この法則は精神を制約し、支配し、啓示を行ってくれる。
それらしい文章を読むとすぐに興奮し、誤解する人が出てきますが、ベートーベンの評価するものは、素直で、まっすぐで、密度のある和音なのです。ベートーベン自身はこれらの発言を「そんなこと言ったの?じゃきっとラプトゥス(熱狂:境に入る)していたんだ」と振り返ったそうですが、音楽をしっかりと学び、高みを目指し、理論的・感性的に、和声に永遠性を付与する・・・という本来(本当)の意味を汲み取ることが大切です。